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[ 出雲族[国津神:縄文系](出雲王国) vs 大和族[天孫族:弥生系](大和朝廷) ] |
1984(昭和59)年に島根県の神庭・荒神谷遺跡からの大量銅製品の出土は従来の出雲観を塗り替えました。 それまで(出雲大社以外に目立った遺跡や遺物は無い)山陰の鄙びた一地方である出雲に、何故「国譲り神話」があるのか、また何故、時の権力者が(自分達の都合の良い様に書かせたに違いない筈の)日本の正式な史書である古事記上巻の実に1/3もの部分を割いてまで出雲を取りあげる必要があったのか、謎でした。 1984(昭和59)年以前の銅剣の日本全国のそれまでの出土総数は300本余りでしたが、 1983-1985年(昭和58-昭和60年)の荒神谷遺跡の発掘調査で、4列に並んだ銅剣358本、すぐ近くに銅鐸6個、銅矛16本が一度に出土しました。 この時から出雲に対する認識は一変しました。 そして1996年(平成8年)、今度は加茂岩倉遺跡から実に39個もの銅鐸が一度に出土しました。 更に同じ年、島根県出雲市の正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されました。 もはや出雲は何もない、神話だけの国ではなく、「記紀」(古事記、日本書紀)の出雲神話は本当に存在した出雲王国の話として、多くの研究者は出雲王国の存在を確信しました。 | |||
実際は、縄文時代の日本列島を平和に平定して出雲王国を築いていた大国主命の出雲族に、 弥生時代の直前に渡来してきた天照大神の大和族が国譲りを迫ります。 (当然、出雲族は拒否します。) 3度目の攻撃で出雲族に勝った大和族は『大和朝廷』として日本を平定していきます。 「国譲り神話」では 大和族の天照大御神(アマテラス)は孫の火瓊瓊杵(ホノニニギ)を第一陣の使者として出雲の大国主に対し 「出雲の統治権を高天原に譲るよう交渉」させたが、第一陣、第二陣の使者は出雲側の懐柔に会い失敗した。 三度目の使者、建御雷(タケミカヅチ)は出雲の稲佐の浜で大国主命に対して強引に「国譲り」を迫った。 大国主は即答せず、長男の事代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。 事代主は大国主に国譲りを勧め、草の陰に隠れてしまう。そこで大国主は国譲りを決意するが、末子の建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建御雷に信濃の諏訪まで追いかけられ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。 (一説には "出雲族には銅剣しかなく、大和族は硬い鉄剣を持っていた" からとも言われています。) 建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、ここに「出雲の国譲り」が成立する。 大国主は国譲りにあたって壮大な宮殿造営の条件を出す。高天原はこれを了承し多芸志の浜に宮殿(出雲大社)を造った。 とのことです。 実際は紀元前3世紀頃に秦国から徐福が2度渡来したと言われており、1回目は若狭湾に上陸した。 徐福の2回目の上陸地は、北九州の西側で、この時は物部氏(武術者、技術者集団)ら大勢の技術者や若者を伴って、稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術も持って渡来したと言われます。 敗れた出雲族は主に東北に逃げ、また信州・関東方面(一部は九州・近畿)にも逃げのびたと言われており、DNA解析でも出雲と東北は共通点が多いそうです。 (言語も似通っていると言われています。) 日本海の海岸を東に逃げた出雲族は北陸の越(高志、古志とも)の国(当時は出雲王国内)に着き、一部の信濃方面に向かう人達以外の大勢は東北へ逃げのびたそうです。 (後に「白河以北」「河北」と呼ばれる)白河の関(福島県)より北の東北および北海道を大和朝廷は「道の奥(陸奥:むつ)」と呼びました。即ち、大和朝廷は出雲族を道の奥に封じ込めました。) また、南の信濃方面に逃げた人達は諏訪湖の辺りで、追ってきた大和族と最後の戦いをして、この戦いにも敗れ、降伏し、「国譲り」が決定したそうです。 この様に、出雲族の一部は諏訪湖周辺に封じ込められ、これが諏訪神社の始まりと伝えられています。 その後、出雲族は更に関東方面に向かい、埼玉県の氷川神社や久伊豆神社・鷲宮神社も出雲族と深い関わりがあるそうです。 また、九州方面に向かった人達は親戚の福岡の宗像大社の一族へと逃げ、更に南へ逃げのびた人もあり、 九州に安住した者は隼人(はやと)、東北に安住した者は蝦夷(えみし)と呼ばれるようになったそうです。 また、(古事記にも名が出てくる三輪山がある)奈良県桜井市の(日本最古の神社と言われている)大神神社(三輪明神)は大国主命の別名とも言われる大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を御祭神としており出雲族系の神社で、近くの大和葛城地方にも多くの出雲王朝の人々が移住して来たと言われています。
1万6500年前に日本で世界最古の土器がつくられました。 1万3000年前に日本で人の形をした多くの土偶がつくられました。 遺跡から判断すると、縄文時代の人の骨には傷が無く、人が争った跡が全く見つからないそうです。 また、縄文時代は移動生活では無く、定住生活をしていたようです。 (縄文時代の土偶のあの複雑な模様をみると、移動しながらや、人に追われながらの生活では絶対に造れない程の繊細さです。定住して、誰にも襲われる心配の無い、静かな安定した生活だからこその、土偶の繊細さだと思われます。) (また、青森県の三内丸山遺跡に見られる計画的な大規模な集落や集落周辺に多数植栽されたクリ等の樹木や多数の土偶および亀ケ岡遺跡の遮光器土偶など、出土しているものだけでも縄文時代の定住生活が確信できます。) 縄文人はのちに渡来人と混血しましたが、 現代日本人も縄文人のDNA (特に日本人特有の遺伝子と言われるD1b遺伝子) を引き継いで持ち続けているそうです。 | |||
「神無月」(かんなづき)は、日本の旧暦で10月の事です。 10月は日本全国の神様(国津神)が「出雲」に集合されるので、出雲以外の国には神様は居られ無いそうです。 また、出雲では10月を「神在月」(かみありつき)と言われています。 (全国の神様が出雲に来られているからです。)
(現在も出雲では神在月には「神迎祭」に始まり、「神在祭」が行われ、そして「神等去出祭」が行われています。) 大国主命が天照大神に「国譲り」をなさったとき、「私の治めていますこの現世の政事は、皇孫あなたがお治めください。これからは、私は隠退して幽(かく)れたる神事を治めましょう」と申されたという記録があるそうです。 縄文時代の出雲王国で決められた「神無月」の伝承は現代でも根付いており、使われています。 出雲族に勝った『大和朝廷』も日本中に深く根付いた「神無月」の伝承を変える事は出来なかった様です。 勝者は敗者が作った決まりを変えようとする筈です。 特に前の王国を称賛するような信仰や伝承は絶対に変えたい筈です。 しかし、時の権力者にも変えられなかったのだと思います。 (『大和朝廷』が書かせた、古事記や日本書紀には「出雲王国」の文字は無く、前の国の存在を一切認めずに、「国譲り」の神話のみ記載されているだけです。 ですから『大和朝廷』は「出雲王国」の信仰や伝承も絶対に消し去りたかったはずですが、変えられなかったのだと思います。) その理由は、住民にとっては、何代にも渡り、先祖代々の信仰や伝承になってしまっている事だからだと思われます。 数年前や十数年前に決まった規則なら、その規則が変わっても対応することは難しい事ではありませんが、 (数百年~数千年と)何代にも渡り先祖代々受け継ぎ、語り継がれてきた信仰や伝承・風習は簡単に変える事が出来ません。 縄文時代の出雲王国で決められ、何代にも渡り先祖代々受け継いできた「神無月」の信仰は 勝者の『大和朝廷』でも変える事は出来なかった程に、日本中に長く深く根付いていました。 また、その後の飛鳥・平安・鎌倉・室町・戦国・・江戸・明治の時代でも変える事は出来ませんでした。 (「神無月」の信仰は現代でも深く根付いています。) 何代にも渡り先祖代々受け継ぎ、語り継がれてきた「神無月」の信仰から考えると、もしかすると
「記紀」の平和的な「国譲り神話」とは 大和朝廷(大和族)側が後から自己に都合良く作った神話です。 『国譲り』とは、[国譲り] という言葉に既に現れている様に、 『譲』られる前に、(大和朝廷より前に)『国』が有ったのです。しかし、大和朝廷はそれらの古い国の事を全て「神話」として闇に葬ってしまっています。 また、『出雲国風土記』に出てくる「国引き神話」も、 旧石器時代や縄文時代の出雲国周辺の地殻変動や地形の変化が 記憶されて語り継がれて、半島や国を引っ張る神話に繋がっていると考えると、
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[ 日本の神社の(出雲族系、大和族系)分類の一覧表 ] |
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